THE OK GIRLSインタビュー第1回(全3回)
2020年1月、東京都現代美術館で開催されている「ダムタイプ|アクション+リフレクション」展(2020年2月16日(日)まで)の関連イベントとしてTHE OK GIRLSのショウが行われた。
前衛的なパフォーマンス集団として、京都の、そして世界のアングラシーンで異彩を放ってきたにもかかわらず、THE OK GIRLSに関する記録は非常に少ない。そんな彼女たちに今まで殆ど語られてこなかった結成秘話や今までの活動の軌跡を、ショウ終了後に語ってもらった。
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第2回 THE OK GIRLS結成!
第3回 これからもTHE OK GIRLS!
聞き手:長谷川祐子(東京藝術大学教授)
構成:原田美緒(長谷川研究室修士1年)
《THE OK GIRLS プロフィール》
ダムタイプのパフォーマンス《pH》のパフォーマーとして出会った、ミサコ(画家・薮内美佐子)、マミ(音楽家・田中真由美)、スナボウ(舞踊家・砂山典子)のトリオ。ダムタイプツアー中の1992年、マドリッドのバーゲンセールワゴンから[ OK ] と書いてある水着を発掘し、「OK GIRLS」を発足。路上、クラブ、TVなど声がかかればホイホイ出張。「これ、変じゃない?」という違和感に、ボケと突っ込みを入れるパフォーマンスを展開。古橋悌二のHIV感染カムアウトを機に、“ヒューマン・リブ” を掲げ、“文化のウンコを投げ合おう!” を旗印に、国際HIV / AIDS 会議や、AIDS Benefit Partyでのショウ、現代美術界隈でもパフォーマンスを繰り広げ、90年代を盛り上げた。活動休止を経て2016年より古橋悌二の生誕祭にて復活。
第一回 3人の出会い:《pH》(1990年)
―今日は素敵なパフォーマンスをありがとうございました。《S/N》の記録映像上映後、みなさんが登場したときの姿がまるで妖精のようで、本当に可愛らしかったです。
今回、古橋悌二さんとお約束してやっと実現したダムタイプ展ですが、OK GIRLSに関してはまだ展覧会を実現できていません。私はそれを次のステップにしたいと考えていますが、資料が驚くほど少なくて困っています(笑)そこで、OK GIRLSを知るためのファーストステップとして今回はみなさんに直接インタビューさせていただくことにしました。
まずはOK GIRLSの始まりを聞かせてください。元々ダムタイプがあり、そこからTHE OK GIRLSが出てきた、という流れだと思うんですけど。
砂山:そうですね。《pH》(編者注:1990年初演)があり、そこで出会ってスタートしましたね。
薮内:私は元々ダムタイプのメンバーでしたが、《pH》を作ろうという構想がダムタイプで生まれた時点では既にやめていて。
―ミサコさん(薮内)は、ダムタイプには当初いつからいつまで在籍してたんですか?
薮内:84年からですね。ダムタイプは大学のサークルだったのでね、大学を卒業して1988年に《Pleasure Life》をやり終えたあと、約1年ほど抜けました。その時期はダムタイプ全体で、このグループをどういうものにしていくかという理念を話し合っていたらしいです。その中で《pH》という作品を作ろうという構想が持ち上がって、そのときに出演者として声をかけてもらいました。
―その構想が持ち上がったのはいつですか?
砂山:88年の 《Pleasure Life》後でしょうか。以前、小山田さんに聞いた話では、《Pleasure Life》で海外にダムタイプの存在を知ってもらうことができた。しかしメンバーにとっては大きな借金を抱えてしまったこともあり一時解散となった。残った3人である、小山田徹、古橋悌二、穂積幸弘が 《pH》を構想、最初から海外ツアーを目論み、助成金を取るために画策していたようです。その後、去っていったメンバーの高谷史郎、松井桜子、泊博雅、藤本隆行を呼び戻し、全体構想を充実させていった。その後に、パフォーマーに声をかけたのです。
―《pH》の構想期間は大体何年くらいだったんですか?
薮内:1〜2年くらいですかね。
―それでは、《pH》がまだ構想段階だった89年に、《pH》の出演オファーを受けて再びミサコさんは帰ってらしたんですね。
薮内:そうですね。私が抜けている間もダムタイプのメンバーとの友人関係は続いてはいたから、なんとなく「どうしてる?」って会ったりはしてたけど。
田中:私がクラブでミサコさんや悌二さんと知り合ったのは88年か89年くらいだったんですけど、ちょうど1回目の”DIAMONDS ARE FOREVER”が始まった頃でした。だから、悌二さんに「マミちゃん(田中)、今度パフォーマンス出えへん?」って言われたときは”DIAMONDS ARE FOREVER”の用事かな?って思って。”DIAMONDS ARE FOREVER”というのは当時ドラァグ・クィーンのミス・グロリアス(古橋悌二)とシモーヌ深雪、そしてDJ LALA(山中透)が中心となって始まったN.Y.のピラミッドやコパカパーナのクラブスタイルを踏襲したワンナイトスタンディングのエンターテインメントパーティーです。それと同じ頃に《pH》の構想を練ってはったみたいで。
―マミちゃんはその当時既にダンスやパフォーマンスの経験者だったから誘われたの?それともその圧倒的な存在感で誘われたという感じですか?
一同:(笑)
田中:元々《pH》は音を中心としたパフォーマンスにしようとしてたらしく、まあ私は音楽家やから、最初はパフォーマンスで声を出してほしいということで誘われました。
薮内:マミちゃん、この《多角の旅》(1989年)を無門館に見に来はったよね。そのときにクラブでただ会うだけ違うて、じっくり話すようになって…あ、そういえば一緒に宝塚見たよな(笑)
田中:(笑)まあこのあたりから悌二さんミサコあたりと遊ぶようになったって感じですね。
―その頃の関西のクラブシーンはどんな感じだったんですか?
田中:その頃はメトロ(京都のナイトクラブ)もなかった気がします。大阪の方で遊んでたね。シモーヌ(深雪)とかと。
薮内:そうそう、大阪。そのときは”こばけ”みたいな。ちょっとコスチュームで「化け」てクラブに繰り出してました。
―そのころから舞台に上がって楽しむという感じだったんでしょうか。
薮内:いや、そのときは普通に踊って楽しんでましたね。そういえば、”DIAMONDS ARE FOREVER”に遊びに行ったときのマミちゃんの映像をダムタイプのオフィスで見て、マミちゃんのことを「この人すごいよなあ」ってみんなでよく言ってましたね。マミちゃんは昔バレエやってはったから。
田中:10歳くらいまでやけどね。スナボウ(砂山)が誘われたのは、ミサコさんと私と、それともう一人が《pH》に出演する予定やったんだけど、その人が急遽出られなくなったときやね。そのとき、悌二さんに「ダンスですごい人がいんねん。その人に教えてもらったらええよ」って言われて。その流れで、スナボウが《pH》に合流した。
砂山:私は横浜の「黒沢美香&ダンサーズ」というカンパニーにいて、まだ”コラボレーション”という言葉がないような時代に、ダムタイプと黒沢美香がコラボレーション作品を作ったんですよ。それが青山円形劇場でやった《The Nutcracker》(1988年)ですね。それで私はダンサーとして参加して、ミサコと悌二さんとご一緒して。そのとき参加していた4人のダンサーの中から、ミサコと悌二さんが私のことを選んでくれたんです。
薮内:そのとき4人のダンサーがそれぞれ振り付けしてくれはったけど、振り付けのセンスが悌二さんのに合ってたんだろうね。「あ、こんな振り付け欲しい」って悌二さんが思うような振り付けをスナボウが提案してくれた。
砂山:《pH》に参加してわかったけどマネキンみたいなダンスが求められてたんでしょうね。他の三人は有機的な感じで、私はというと、シャキシャキと踊るから、無機質な感じがあったかもしれない。それから2008年のVoyageツアーまでずっと私たちは一緒だったね。
―話を聞いてると、ミサコさんはダムタイプの影のフィクサーと言ってもいいくらいですね(笑)ミサコさんの働きかけで《pH》のパフォーマーとして集まった3人ですが、《pH》制作時の思い出を教えていただけますか。
砂山:私が誘われて無門館に行ったときには、すでにそこにトラスが組んであったんです(笑)
―では、もう既にセットアップが完成した状態で練習が始まったということなんですね。
砂山:そうですね、ニュートラルな3人のマネキンのような女性という設定がもう既に出来上がっていました。そして無門館に行ったらトラスも既に出来上がってるし、しかも動いているし(笑)振り付けに関しては、悌二さんに、「ここからトラスの向こうに行くんやけど、トラスを乗り越えるためにはどうしたらいい?」とか言われて。そういう風に悌二さんからもらったお題に対して私が動きを作り出していくという形をとってました。
―スナボウが入ってくる前に既にマミちゃんとミサコさんは座組にいたわけですけど、お二人はどの時点で制作プロセスに入っていったんですか?
薮内:あんまり覚えてないなあ(笑)
田中:私も…(笑)
薮内:でも覚えてるのは、スナボウが来てくれる前に私とマミちゃん二人と悌二さんで動きを考えていたこと。そのときはもうちょっと複雑に立ち上がる動作とかを考えたりしててんけど、あんまり上手くいかず…だからみんなで「砂山さん入ってきたら何か教えてくれはるかもしれんなあ」って言ってて(笑)
田中:そうそう、「砂山様に聞いたらいいねん」って言ってた(笑)
薮内:それでスナボウが来て振り付けを考えてくれたときに、私たちが考えたものとは違ってシンプルに立ち上がったから「すごーい」ってなって(笑)
―ミサコさんとマミちゃんが二人で何か提案したことはあったんですか?
砂山:ありますあります。振り付けでは3人が共通して同じメソッドを持ってないから、それぞれができることしかできない…と言ったら語弊はあるけど、振り付けに関してはミサコから出たものもあるし、マミちゃんから出たものもあるし。それぞれの振り付けを「面白いね」って言って採用して混ぜていくって感じでした。
―衣装はどんな風に決まったんですか?
薮内:最初から下着という風に決まってたかな。
砂山:悌二さんが絵を描いてましたね、「ヒールの高い靴なのに靴下を履いている」とか。悌二さんの中でもう既にヴィジュアルは決まってたんだと思います。
田中:うん、マネキンみたいな感じってね。
薮内:《036-Pleasure Life》(1987年)に肌色の下着のシーンがあって、多分そこからイメージは来てる感じがする。
砂山:ニュートラルな感じっていうイメージですよね。
―では衣装に関しては、特に自分たちから意見を言うことはなかったんですか?
砂山:そうですね、何を着るにも抵抗はなかったですね。
田中:うん、なかったね。
砂山:まあでも嫌だと思ったら言うしね。衣装の下着は可愛いって思ってたよね。セクシーじゃなかったし。そういえば、マミちゃんは髪の毛すごい長かったのに切らされたよね。
田中:切らされたっていうか、自分の意思もあったけど(笑)
砂山:しばらく髪の毛切るの抵抗してたよね。
田中:そうだね。絶対切りたくないと思ってたけど、あるとき気が変わって、「別に切ってもいっか」ってなったね。
―トラスも迫ってきて乗り越えないといけない。椅子もトラスが薙ぎ倒していく。いろんなものが自分に向かって飛んでくる。そんな状況の中でロボティックでニュートラルな動きをしないといけないー《pH》はそういったパフォーマンスでしたよね。練習がすごく大変だったのではないかなと思うんですけど。
砂山:そうですね、マミちゃんなんてあざだらけでしたね(笑)
田中:最初の練習のときに、精神的に参って飛べなかったことがあったね。
砂山:しかもヒールで飛ぶからね。私は飛ぶの平気な方だったけど、マミちゃんはトラスをがっと掴んでしまったりしたね。
―《pH》の練習はどんな内容で、どれくらいの期間行いましたか?
砂山:練習は1年もなかったですよね。話を聞いたのが89年の冬で、もう次の夏には会場の無門館にいましたね。89年の冬に山中透さんのスタジオで声の練習したり。叫ぶシーンがあるので、オペラの人を呼んで、発声練習しましたね。
薮内:最初の頃はなんか歌わそうとしてたな。声楽やってたな。
砂山:無門館でレジデンス制作をさせていただけたのは有難かったね。無門館にはパイプ椅子がたくさんあるから、それを使って動きを作るということをしましたね。
―《pH》でツアーに行かれたと思うんですけど、3人でその間ずっと一緒にいたんですか?それとも必要なときに集まるという感じでしたか?
薮内:ずっといっしょにいたよな(笑)
砂山:振り付け作らなきゃいけなかったし。
―3人は《pH》にどんな印象を抱きましたか?
薮内:《pH》は出演してて面白かったし…最初から最後までノリがあるいい作品やなと思ってましたよ。しんどかったけど(笑)
砂山:そうだね。3人ずっと出ずっぱりで、晒されて…
田中:70分弱休む間もなかった。
砂山:上にいるお客さんから俯瞰されてるのも嫌な感じで。
田中:じっとしてるときはじっとして、動くときは激しく動かないといけない。
砂山:激しくなる前にじっとしてるのがしんどかった(笑)
―上から見られるって全方向の視線ですもんね。でも環境とアクチュアリティをなるべく観客と共有したい、ということでそういう構造になってるんでしょうね。
砂山:そうですね、舞台の中にいてリアリティを感じることができますよね、ダムタイプの作品は。
薮内:スナボウが真ん中にいたからあの作品はしまってたよね。お客さんは両サイドにいて、自分サイドのパフォーマーはあんまり見れないんですよ、お客さんは。真ん中の人はどちらからも見れるし(笑)
砂山:でも私は黒沢美香さんに「あなたはリーダーシップ取ってるだけ。他の異能な二人には負けてる」って言われましたよ…悔しかったな(笑)
―3人は絶妙なバランスで成り立ってるんですよね。スナボウには異能な二人を引っ張っていくだけのバイタリティがあると思います。
薮内:スナボウは懐が深いんですよ。私みたいな踊れなさそうな人にもしっかり教えてくれはるんですよ。
砂山:いやいや、ミサコはジャンプ力があるじゃん(笑)ミサコは高校以降は演劇やってたけどそれより前はバレーボールやってたからその強さがあるよね…私は逆に2人から吸収し、エクスチェンジしたと思いますよ。
―マミちゃんも10歳までバレエをやってたということで、やはりみなさんは方法は違えど身体の基本ができてるなあと思いますね。
(2020年1月13日、東京都現代美術館にて)