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個人プロジェクト

“縁EN”とはLimitである。“Border”である。
そして“Border”は、無数に、多様にあらわれては、消失している。
それにはLimitがない。
LimitにはLimitがない。
Borderとは流動である。
Borderとは移動である。
──『室伏鴻集成』[“縁EN”とは……]より

写真家・平澤賢治は舞踏家・室伏鴻の研究プロジェクト「Responding to Ko Murobushi」のため、来日したダンサーのひとり、ファニー・セージ(フランス)との出会いをきっかけに「肉体と魂」についての考察を開始する。本展『EN』では、彼女との暗闇の中でのフォトセッションを通して生まれた写真及びインスタレーション 作品を展示している。
平澤はサーモグラフィカメラを用いて、暗闇の中でフランスのダンサー、ファニー・セージによる、室伏鴻への応答・再解釈を含んだパフォーマンスを撮影した。平澤はこの撮影中、カメラのまなざしを通してのみ彼女の熱分布としての身体のフォルムの変容をとらえることができる。それは、写真技術の黎明期に実体としての心霊をとらえようとしたかつての写真家たちのように、室伏が取り憑かれた「死体」としての感覚、あるいは「生」と「死」の境界を移動する「亡霊(ユーレイ)」としての身体をつかまえようとする行為だったのかもしれない。展示スペースの奥では、棺を連想させる医療用のライトボックスに照らされた、極度に薄く軽い半透明の平織物(オーガンザ)が風でたゆたっている。平澤は過去に、恋人を交通事故で亡くした当日にiPhoneで撮影した⻘空の写真をフォトショップで色彩調整し、記憶の中の「その日の青空」を再現する試みを1年間365日続ける未発表のプロジェクトを行っていた。この生地には、そのプロジェクトに由来する記憶の中の⻘色のテクスチャーが、室伏に応答するファニー・セージの身体の可視化された熱量イメージと重ね合わせられ、プリントされている。このことにより、環境に依存する記憶の不安定性が提示される一方で、主観的記憶に内在する普遍性への作家の追求も見え隠れする。そのパラドキシカルにゆらく記憶の状況は、「葬送の不可能性」ともいえる状態を暗示し、柔らかな素材を使った本インスタレーションによって、肉体と魂の関係性は一旦、空間内で宙吊り状態におかれ ている。「縁EN」とは、室伏鴻の1985年のパフォーマンスのタイトルでもある。室伏は、縁とはゆれうごくトランジット状の境界であるといった。それは自らが新陳代謝しながら、自身の領域を決定する細胞膜のようなものではないかと、私は想像する。つまり、「生」を規定する縁は、その「死」をも規定する。同時に、膜の浸透圧のような力学によって、その境界は生と死の双方が流動し合うことを可能にする。
縁にぎりぎりの“現在”として触れ合うこと。
作家は、ファニー・セージのイメージや自分自身が過去に制作したイメージを重ね合わせることで、光の棺からあらわれる、軽やかな亡霊やミイラとして踊る室伏の肉体の領域とも接触する。本展は、共同体を否定し「死体」を志向した室伏、それを肉眼ではなくカメラを通してみつめる写真家、そして本展を訪れるもの同士全ての境界の「現在」の接触・相互浸透により、共同体と呼べるなにかとは別の流動的な「縁EN」で私たちの肉体をつなぐだろう。